日々押し寄せてくるシリアからの難民。そもそも彼らが祖国を離れる発端はどこにあったのでしょうか。なぜ「アサド政権は耐え」たのでしょうか。
以前ご紹介した動画からもわかるように、シリア内戦は2011年「アラブの春」のなかで始まりました。
チュニジアに始まり、エジプト、リビア、バーレーン、イエメン、オマーン、サウジアラビア、ヨルダン、イラク、モロッコで「アラブの春」に呼応したデモ。
しかしシリアでのデモは始まりが遅かった。
そして「アサド政権は耐え、内戦へ突入した」。

なぜ「アサド政権は耐え」たのでしょうか。
一言でいえば、民衆のデモが比較的大きくなかったから。
これには大きく3つの原因があります。
1.facebookの低普及率
始まりの国、チュニジアでは一人の青年の焼身自殺が発端でした。彼は政府への反抗心を示すために自らに火をつけ、その動画がFacebookを通して広まったことで民衆の政府に対する不満が「デモ」という形になりました。
エジプトではそれまでも頻繁にインターネットを使ってストライキが企画されていました。そこでチュニジアの動きを受け、政府の弾圧や労働状況に不満のあった若者がFacebook上に集まり、デモを呼びかけたのです。
しかしシリアでは状況が異なります。
各国の革命を受け、シリアでもFacebookでデモを呼びかける動きがありました。しかしそもそもシリアでFacebookが許可されたのはアサド政権が現在のバッシャール・アル・アサド(2000-) になってからで、Facebookの普及も十分ではありませんでした。そのため、デモに集まる人も比較的多くはなかったのです。
2.海外からの呼びかけ
Facebookページ「シリアの革命」をつくった人たちのほとんどは、海外からシリアの腐敗を正せと呼びかけていました。デモに加わるにはリスクもあります。言論の自由がかなり制限されているため、政治犯として逮捕される可能性もあるのです。それを海外の安全な地から煽るのは、いささか卑怯だと感じた人々はFacebookの呼びかけに応じなかったのです。
3.メディアのハイジャック
シリアでは少数派のアラウィ派(アサド政権)が多数派のスンニ派とその他少数派(反政府勢力)を支配するという逆転現象が起きています。
シリア内戦は宗教対立だと報道はされていますが、しかし実のところ民衆のなかでの宗教対立はそれほど強くありませんでした。
確かに改善すべき点はあるけれど、政権を倒されることによって生じる混乱は願っていない。自由が欲しい。というのがスンニ派の素直な意見であったと、ジャーナリストの重信メイさんは記しています。
しかしただ腐敗の是正を訴えるためだけにデモに行っても、メディアによって「アサド政権を倒す」という目的にすり替えられたのです。
このようなメディアの影響やデモが暴力化することによる海外からの軍事介入を恐れたため、デモへの参加を止めた人もいたのです。
なぜメディアによる情報操作があったのか。それは次回改めてご紹介します。
以上3点がシリアでデモ勢力がそれほど大きくならなかった理由です。
次回は「なぜ内戦へ突入した」のかに焦点を当てます。
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